わが街の自然、歴史、文化の価値ある遺産をいつまでも!


       
 
    1 安部(あんべ)氏と半原                 詳しくはこちら          

 1636年(寛永13年)に領主となった安部氏は,半原代官役所き,以後1871年明治4年)の廃藩置県まで,代々この地をおさめました。安部氏の本拠は武蔵国(岡部)で摂津(大阪)も領地とし,それぞれに陣屋(役所)が置かれました。最後の藩主となる安部信発(のぶおき),薩長の官軍の動きが活発となった1868年(慶応4年)3月,半原への移転い出て,をあげて半原にることになりました。江戸藩邸だけでなく,岡部陣屋藩士の多くも半原に移住することになり,岡部藩の名前も半原藩となりました。
 


         
 
    2 半原藩邸跡と藩校(学聚館 がくしゅうかん          詳しくはこちら        

 岡部藩が半原に移り,1870年(明治3年)5月,藩内の子弟教育の目的で学聚館が設立されました。生徒は
生徒は,6・7歳より入学を許され,原則として藩士の子弟でしたが,平民も志願の者は許可する方針だったようです。生徒数は約50人ほどでしたが,翌1871年(明治4年),廃藩置県となり廃校となり,わずか1年間存続したに過ぎませんでした。
 



         

 
    3 八名高(やなこう)         詳しくはこちら                         
 
 八名郡立高等小学校(通称やなこう)は,八名郡でただ一つの高等小学校として1887年(明治20年),半原藩邸跡に創立されました。校舎・寄宿舎や実習のための耕地と果樹園などがありました。 当時,東三河に中学校がなく,旧吉田藩士の初代校長,藤森(よしお)が進んだ教育実践を行い,県外からも生徒が集まるほど広くその名前が知られました。来校者に桂太郎(後総理大臣),乃木希典(まれすけ)(後陸軍大将),出身者に松井石根(いわね)(後陸軍大将),冨安風生(ふうせい)(俳人)等がいます。
   
   
   
         
 
    4 森の石松                詳しくはこちら      

 森の石松は富岡出身です。
半原村
堀切(ほっきり)の山本家(苗字帯刀を許され,名主,庄屋を務めた家柄)の次男として生まれました。浪曲や映画,ドラマなどで取りあげられ,愛すべきキャラクターとして定着しましたが,富岡での石松評価は最悪です。やくざ者として村人から嫌われたため,葬式も普通に出させてもらえず,戒名もなく,も建てられませんでした。根強い反感と子孫や関係者への配慮もあって,これまで大きく取りあげられることはありませんでしたが,後世に事実を伝えるために記録しておきます。
   

         
 

    5 五葉城                詳しくはこちら               
 
五葉城は,富岡西部の五葉湖の南にそびえる標高340mの山頂にあり,五葉湖畔から歩いて1時間近くかかる高所にあります。新城市と豊橋市との境界に位置しており,八名郡南部の西郷(石巻中山町)と月ヶ谷(わちがや)嵩山(すせ)町の一円を領した西郷氏の山城と考えられています。戦国時代,激しい勢力争いが繰り広げられた三河と遠江の境にあり,宇利峠,中山峠のおさえとしての役割を担っていたようで,物見台がいくつか置かれていました。西郷家から徳川家康の側室となったお愛の方は,西郷の局と呼ばれるようになり,翌年に二代将軍徳川秀忠を産みます。
   

         

 
    6 宇利の戦いと宇利城址          詳しくはこちら        

 松平清康が今川の勢力が衰えたのを機に,享禄2年(1529),3千あまりの兵を率いて宇利城の熊谷備中守実長を攻めた戦いです。宇利城は天然の要害の山城で,松平勢は苦戦を強いられましたが,味方の裏切りもあって落城,実長は落ちのびたのいわれています。宇利城址は遺構だけでなく,戦いの様子もはっきり記録に残っているため,学術的価値が高く,県指定史跡の第1号として認定されています。今でも,本丸周囲の土塁や石垣,空堀,曲輪(くるわ),井戸などを見ることができます。
   

         

 
    7 今水寺                       詳しくはこちら       

 山や高野山をはじめとして,山中にお寺が建てられるようになった平安時代,吉祥山の中腹に今水寺ができました。弘法大師の開山という言い伝えがありますが,その流れをくむ真言宗のお寺であったことは確かです。冨賀寺に残る古文書には21坊あったと記述されています。この大寺院が,野田の戦いのころに武田軍に焼かれてしまったといわれていますが,多くは謎に包まれています。(年表参照
   

         


 
    8 大脇寺と薬師如来                詳しくはこちら         

 大脇寺に関する資料は,あまり残されていませんが,仁王門の跡が残っていて平安時代に繁栄していたことは確かです。中宇利の冨賀寺の古文書には,「庭野村紫雲山大脇寺坊中7か寺」と記録されています。冨賀寺,今水寺とともに,大きな
伽藍(がらん)がそろって立ち並んでいたようです。後に,武田信玄に焼き払われたと伝えられていますが,本尊の薬師如来だけが兵火をのがれ,現在に至っています。(年表参照) 
   

         
 
    9 山本勘助と黒田             詳しくはこちら               

 武田信玄の軍師とされる山本勘助は,甲陽軍鑑に三河牛久保出身と書かれていますが,謎につつまれた人物でよく分かっていません。生誕地は豊橋市賀茂町と富士宮市が有力とされています。その勘助には子供はいなかったとされていますが(賀茂,牛久保,富士宮等),甲陽軍鑑や黒田の山本家の伝承では子供がいたとされ,山本家には代々の山本勘助の墓が祀られているのです。(年表参照) 
   

         

   10 摩訶戸(まかど)古墳                         
                      
 一鍬田の摩訶戸神社の境内から周辺に15基の古墳があり,摩訶戸古墳群といわれています。そのうち1号墳がよく知られており,石室も完全な形で残っています。直径12.3m,高さ3.4mの円墳(えんぷん)で6世紀頃につくられたと考えられています。入り口部分が崩落したため,コンクリートで補強されていますが,横穴式石室の中は高さが1.7mあり,中に入ると立って歩くことができ,内部をよく観察することができます。
   

         
     
   

   11 旗頭山古墳                             

 吉祥山の北西にある旗頭山の尾根には,7世紀ごろに造られた古墳群(34基)があります。この山にある古墳は日本でも珍しく,大小の石を積み上げて造られています。朝鮮では多く見られる古墳の作り方です。このことから朝鮮半島から海を渡ってきた渡来人たちの墓だろう考える学者もいます。旗頭山は採石場になっていて,ほとんどの古墳が失われていますが,桜淵公園の青年の家の前に復元されていて,いつでも見ることができます。
   

         

 
   12 夜泣き石古墳                                      

 富岡から県道81号を豊橋へ向かうと,東名のガード手前の県道沿いに二つの古墳があるのがすぐ分かります。前方後円墳のように見えますが,2基の
円墳(えんぷん)からなる古墳です。この地区には10基の古墳があり,大原古墳群といわれますが,今は失われ残っているのはこの2基だけです。古墳群からは,勾玉,管玉,直刀,須恵器などがあり,八名小学校に保管されています。夜泣き石古墳とよばれるようになったのは,ある伝説があるためです。
                                 伝説はこちら