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愛知県八名郡地図
1872年(明治5年),愛知県となり,豊川の南東側の74の村が八名郡となりました。旧鳳来町の七郷一色から豊橋市の牛川や多米まで,広範囲だったことが分かります。
八名郡誌(大正15年発行)より |
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八名高の平面図
八名郡高等小学校(八名高)は,八名郡でただ一つの高等小学校として,1887年(明治20年)7月20日,半原藩邸跡に創立されました。寄宿舎や実習のための畑と果樹園などがありました。
(富岡ふるさと会館展示資料)
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八名高の講堂
当時は先進的な教育で全国から注目された八名高でしたが,1902年(明治35年),八名高は廃校となりました。建物は,八名高等小学校(正式には富岡村・長部村組合立八名高等小学校)として,継続使用されましたが,1910年(明治43年)には,完全に廃校となりました。
写真の講堂は,当時の乗本小学校に移築されました。この講堂は,当時としてはめずらしい,メートル法で建築された建物としてよく知られていたそうです。
(写真提供 新城市資料室) |
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八名高等小学校卒業生
この写真は,明治38年に撮影されたものですので,正確には郡立の八名高ではありません。しかし,廃校3年後の写真であり,後ろに校舎と思われる建物があり,服装も八名高時代とあまり変わっていないと考えられます。
(写真 八名小学校提供) |
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「八名高等小学校を偲ぶの記」
昭和10年(1935年)1月,柿原明十氏がまとめられたものです。
来校者には,桂太郎(後総理大臣),乃木希典(後陸軍大臣)はじめ,著名な軍人,博士,議員,知事等が多数訪れています。
出身者としては,後に陸軍大将となる松井石根,俳人の冨安風生をはじめ,法学士,教育家,工学士,医学博士,文学士,軍人(陸軍大将,中尉,海軍大佐)等々,優秀な人材を送り出しています。
(富岡ふるさと会館所蔵)
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先頭で南京に入城する松井石根軍司令官
八名高を卒業した石根少年は,後に陸軍大学校を首席で卒業し,日露戦争などに従軍し,陸軍大将となりました。
中国での司令官として,当時の中華民国の首都南京を攻撃,占領しました。その時に南京大虐殺がおこり,終戦後,その責任を問われ,死刑となりました。
(写真:研秀出版 昭和史より) |
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松井石根陸軍大将揮毫の校旗
富岡小学校へ贈られた松井石根陸軍大将が書かれた校旗です。
戦時中,兵隊送りの際は,この校旗を先頭に,出征する兵士ののぼり旗を掲げ,太鼓に合わせて軍歌を歌って,にぎやかに見送りしたそうです。
(校旗 富岡ふるさと会館所蔵)
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