森の石松 研究冊子

 石松に精通されている地元郷土史家,伊田良種(よしね)氏がまとめられた研究冊子です。これを読めば,石松の一生がよく分かります。
 
          森の石松の生家

 森の石松の生家は山本家で,三河国八名郡半原村堀切です。屋敷跡は約1反歩(10a)もある広さです。
 山本家は百姓とはいえ,苗字帯刀を許された家柄で,代々山本荘次郎を名乗っています。
 
          山本家の系図

 石松の父助治(すけはる)は,作手郷大和田村の稲吉家から「かな」を妻に迎えます。稲吉家は,大和田村の開祖で,「かな」は文武両道の達人,稲吉庄右衛門(しょうえもん)応貞の妹です。二人の間に生まれた長男は若くして亡くなりましたが,続いて次男の「石松」が生まれました。  

   ← クリックすると拡大できます
 
          助治(すけはる)の証文

 石松が幼児期に,父親の助治に連れられて遠州へ炭焼きに出たことは伝承で伝えられていましたが,この古文書の発見により,遠州行きの確かな根拠となりました。
 内容から,助治が自分の土地を10年間近所の山本孫助に預け,5両3分の金を借りたことが分かります。元金を返した時は地所を返してもらうことも書かれています。  


   ← クリックすると拡大できます
 
        山本家の菩提寺 洞雲(とううん)

 洞雲寺は,この地をおさめた安部氏によって建立された真言宗のお寺です。半原藩の士族の供養塔をはじめ,森の石松の墓,中村メイコさんが建立したお墓もあります。
 
          山本家の位牌

 この位牌は,大正8年(1919年)に石松の(おい)欽吉(きんきち)が作ったものです。気性が荒く,喧嘩(けんか)(きち)と言われていたそうですが,寺に唐金(からかね)燭台(しょくだい)一対を寄贈しています。

           (協力 洞雲寺)
 
        山本家の過去帳

 洞雲寺が火災にあったため,過去帳は作り直されています。そのため年代が順不同になっています。上段右から二人目が欽吉ですが,石松の戒名(かいみょう)は書かれていません。上の位牌にも名前はなく,(うと)ましく思われていたことが分かります。

      (協力 洞雲寺)
 
           石松の墓

 山本家の墓地の片隅に葬られています。石塔は自然石です。他の墓碑と比べてはいけませんが,やはりさみしく感じてしまいます。それでも時折,賽銭(さいせん)や酒,ビールが供えられるようです。  
 
         広沢虎造(とらぞう)ご夫妻

 昭44年(1969年)3月23日,森の石松を浪曲で一躍有名にした広沢虎造氏が洞雲寺を訪れ,森の石松の墓を(もう)でられました。中央が先代の洞雲寺住職,その左右が広沢夫妻です。

        (写真提供 伊田良種氏)