学聚館(がくしゅうかん)跡の碑

  1870年(明治3年)5月,半原陣屋内の一棟を仮校舎とし,学聚館を開きました。生徒はおよそ50人ほどで,ほとんどは藩士の子弟だったと考えられています。
 
        当時使われた漢学書

  八名小学校には,学聚館の印が押されている四書五経,文選,史記等の蔵書が数多く保管されています。

 
        「孟子」という漢語の本

  生徒は,6.7歳から入学を許されて,藩士だけでなく平民も希望者は許可する方針だったとされています。    しかし,1871年(明治4年),廃藩置県となり廃校になり,わずか1年間存続したに過ぎませんでした。
 
      半原陣屋(代官役所)の平面図

  安部氏は,1868年(慶応4年)3月に半原への移転を願い出ています。明治維新の混乱のさなか,藩士やその家族は,住む家もなく,民家に間借りするなどして,一時しのぎの状態でした。それでも教育については,何よりも大切にしていたことが分かります。