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清水の次郎長の子分で有名な森の石松は、富岡の堀切の生まれである。八名小学校の西にある堀切池を隔てて、堀切がある。石松の先祖は、山本といい、ここの名主庄屋をつとめる家柄であった。
父は助治、母は作手大和田から来たかなで、石松はその次男であった。このころは家計も苦しく、火事には3度も会い、母が焼死したので、父とともに遠州森町に出た。
石松は、小さいときから、森の五郎親分の世話になり、14歳になったころには、力持ちの、また乱暴ものになっていた。このころ、清水の次郎長に見込まれて、清水に移り、大政、小政らと清水一家の有力な子分にまでなった。やくざなかまの喧嘩には、石松はいつも大きな力になった。
ある時、次郎長のかわりで、金毘羅さまに出かけることになった。無事に代参もおわってその帰途、石松は堀切に寄って滞在した。清水に帰る途中、都田村の都鳥吉兵衛宅に立ち寄った。ここで吉兵衛の奸計にあって殺されてしまった。そのとき、いっしょに出かけた在所の山本庄治郎が、石松の遺体を、富岡の洞雲寺に運び、ここに葬った。
ときに、文久3年6月17日、石松37歳であった。 |
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