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福松の生まれたのは、明治5,6年で、生まれたときには1貫匁(約4キログラム)もあったので、母親は大変難産であったという。生まれてからの肥立はよくて、3歳、7歳と過ぎて10歳ころになると大人くらいの大きさになり、村人たちも「小畑にも角力とりの子ができた。」と言って、みんなの評判になった。
福松の家は貧しかったので、学校にはろくに行かず、10歳ころから大人並の百姓仕事をするほどであった。家の者も大変喜んで、角力とりにするより、家を手伝ってもらおうと、草刈り、田起こし、稲刈り、麦まきなど、何でもやらせているうちに、仕事がはかどるようになって、耕地もふやすことができるようになった。今までの水呑百姓から、一人前の百姓になり、お米も売るほどになった。
やがて、満20歳を迎え、昔のことだから男子は兵隊検査をうけることになった。福松は富岡の郡役所の検査場に出かけていった。身の丈6尺8寸5分といえば、今の2メートル24センチ、びっくりするほどの大男であった。体重をはかることになったとき、検査官は、20貫目の分銅で間に合うだろうと思い、その分銅を用意したが、福松がはかりにあがるとたちまちはねあがって、とうとう23貫(86キログラム)になってしまった。こんな大きな兵隊では着せるものもはくものも間に合わないということで不合格になった。
福松があるとき、大八車に米4俵を積んで大野まで売りに行く途中、日吉村の塩沢まで来ると、ちょうど、橋の工事をやっていて、道ばたに立札が立っていた。「この橋、車で通るべからず、歩いて通るは可なり。」と書いてあった。
困った福松はそこで働いていた人夫たちに、「歩いてなら通ってもよいのだな。」と念をおして聞いた。ひとりの人夫が、
「この立札の通りだ。歩いてならいいぞ。でも車を引いてはいかんぞ。」
と、つっけんどんに返事した。福松はなおも念をおしてから、米4俵を積んだ車を、車ごと「うーん」と力を入れてかつぎ上げた。そしてそのまま仮の木橋を歩いて渡った。それを見ていた人夫たちは、びっくり仰天、「お化け入道がでたあ。」と口々に言って、くもの子を散らすように逃げていった。大野についた福松は無事に米を売って家に帰った。人はこの話をだれいうとなく伝え聞いて、福松を小畑の力士と呼ぶようになり、「大八車荷ない」の話として今も伝えられている。 |
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