八名地区に伝わる昔話です。あなたの地元にも今まで知らなかった昔話が伝えられてきたことが分かりますよ。
   
 八名の昔話
   
庭 野 地 区
 
   殿様(とのさま)から拝領(はいりょう)した名刀の話  

 作手の奥平(おくだいら)殿様(とのさま)の二男か三男が、庭野の神荒居(かみあらい)へ移ってきたのは、今から四百年ほど前のことだろうか。長篠(ながしの)の戦いがあったころで、加藤(かとう)忠左衛門(ちゅうざえもん)という人が、この人に(したが)って、日貝野(ひがいの)のこの地へ移ってきた。忠左衛門という人は、長篠の戦いでも、かなり活躍した家来であったそうだ。

 日貝野に移るにあたって、奥平の殿様から、家来の(あかし)形見(かたみ)として、一振(ひとふ)りの刀が忠左衛門に(おく)られた。それが、備州(びしゅう)長船清光(おさふねきよみつ)という(めい)の入った刀で、永正(えいしょう)元年八月吉日の年号の(きざ)まれた(年きり)ものである。この刀については、次のような話も(つた)わっている。

 長篠の戦いもすみ、新城にお城ができてからはこのあたりも静かになった。お正月休みになると、武士たちは名刀清光を見にやってくるようになった。今のような楽しみの少なかった時代では、こうして名刀をながめたりすることが、一つの遊びや楽しみであったのだろう。
清光を見に、武士たちが忠左衛門の家を(おとず)れることが年中行事(ねんちゅうぎょうじ)になったという。今はこの刀についての記録が伝わっているだけである。

 その後、庭野に移ってきた奥平家は、二つの新家(しんや)に分かれた。今名古屋で医者(いしゃ)をやっている奥平幸雄さんと、今も日貝野に住んでいる奥平敏男さんは、この子孫(しそん)である。本家のあったところは、今では古井戸(ふるいど)が残っているだけである。

 一方、忠左衛門の家は、代々(だいだい)百姓(ひゃくしょう)であったが、このあたりの小庄屋(こしょうや)として、「忠左衛門」という名前を名乗ってきた。日貝野に「加藤」の(せい)の多いのは、忠左衛門から分家したものである。

   ・加藤忠左衛門=常安寺の過去帳にある人 永正元年=1504年