八名地区に伝わる昔話です。あなたの地元にも,今まで知らなかった昔話が残っていますよ。
   
 八名の昔話
   
中宇利地区
 
   宇 利 城 の 戦 い  

 宇利城の城主熊谷備中守(くまがいびっちゅうのかみ)実長(さねなが)直利(なおとし))という人は,駿河(するが)の今川氏輝(うじてる)に従っていました。一方,安城(あんじょう)にいた松平(まつだいら)清康(きよやす)は,牛久保(うしくぼ),野田,西郷(さいごう)と勢力をのばしていましたので,今度は宇利城を手に入れようと,享禄(きょうろく)2年という年に,三千人の兵を(ひき)いて攻めてきました。   
 作手の奥平(おくだいら)貞勝(さだかつ)や野田の菅沼定則(さだのり)も,松平勢の先鋒(せんぽう)として加わりました。城の正面からは清康のおじにあたる内膳正(ないぜんのかみ)信定(のぶさだ)右京之進(うきょうのしん)が二千の兵をもって攻め,旗本勢は南の八幡神社の森と,西の冨賀寺(ふかじ)の山の上に陣をかまえました。(いくさ)のはじめに城の近くの民家に火をつけましたから,折からの風にあおられて火は猛烈(もうれつ)に吹き出し,煙は城の方へ吹きつけて,敵陣(てきじん)だけが(けむり)にまかれてしまったかのように見えました。大将清康は大変よろこんで,「勝ち(いくさ)になるぞ,それ攻めよ。」と,一斉に太鼓(たいこ)を打ち鳴らしました。ときの声,矢さけびの声,それに山びこがひびきわたって,あたりはわれんばかりのものすごさです。
 城の大将熊谷(くまがい)は,世に聞こえた(ごう)の者です。大手門の木戸を開いて打って出てきました。右京之進の前面です。(はな)れたところからもよく見えますが,まわりは沼田のことで助けようにも近寄れません。退(しりぞ)かずに奮戦(ふんせん)しましたが,とうとう右京之進
の一隊は()()にしてしまいました。これを見ていた清康は大変おこって,「右京之進がやられては,松平の面目(めんもく)がたたない。みんな死ぬ気で一度に攻めかかれ。」と大声で命令しました。声に応じて,松平勢はいっせいに攻めたてました。熊谷勢は次第に旗色(はたいろ)が悪くなって,とうとう大勢の死者を出して城の中に逃げこんでしまいました。勢いにのった松平勢は,一気に城を攻めとろうと,へいをのりこえようとします。中から,大石や大木を落としかけられて,松平勢がひるむところをめがけて矢がとんできます。これ以上攻めることができなくなりました。
 この時,松平勢の(じん)から烽火(のろし)があがりました。するとこれにこたえるように,城の中から火の手があがりました。どういうことなのでしょう。実は,城の中にいた岩瀬(いわせ)庄左衛門(しょうざえもん)という人が,もともと松平家に仕えていたことがありましたので,清康と庄左衛門との間に,いざというときには,松平の味方になるという約束(やくそく)がしてあったのです。城中にあがった火の手は,山風にあおられてみるみる燃え広がって,すっかり火の山になってしまいました。こうなっては,もうどうすることもできません。城主の熊谷実長(さねなが)直利(なおとし))は,残った城兵とともに,山伝いに,どこへともなく落ちのびていったということです。


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